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目から鱗「サルの社会とヒトの社会―子殺しを防ぐ社会構造」 [書籍/漫画感想]

サルの社会とヒトの社会―子殺しを防ぐ社会構造

サルの社会とヒトの社会―子殺しを防ぐ社会構造

  • 作者: 島 泰三
  • 出版社/メーカー: 大修館書店
  • 発売日: 2004/07
  • メディア: 単行本

 けなすのは簡単だが、ほめるのは難しい。気に入った本のことはなかなか書けない。
 本書は東銀座の改造社書店で最初に見かけた。この本屋は一見何の変哲もない本屋だが(但し、立地は変。本屋がある様な場所ではないし、ビルが古くて地味なので永いこと気づかなかった)、棚に並ぶ本が非常に私好みの選書をしていて、とくに考古学・自然科学の専門書はお金があったら買いたい本ばかりあるので、どうしてこう選書が良いのかと店主に思わず聞いてしまった。私はこの本屋でいつもうんうん粘った挙句、結局高額な専門書には手を出せず、安くて面白い本を買い、残りは図書館で探すことになるのだが、この本はちゃんと買いました。
 最初はほのぼのしたニホンザルの観察日記から始まる。みなしごの雄サルに調査団の人たちがいたずらで著者の名前を付けて「タイゾー、タイゾー」と可愛がるという心温まる光景が展開する。しかしタイゾーを群れへ返す試みのあたりから話は深刻さを増してくる。そしてなぜ群れに受け入れられないかがまず後半への伏線になる。
  随所に霊長類学者の世界的権威である河合雅雄氏へのむき出しの反抗心が表される。それは日本のお家芸である餌付けによる餌場サル学が、いかに自然の本来の生態系からかけ離れていて、更には人間の傲慢さがサル社会を破壊してしまっていることに対する怒りである。
それはこの本がある意味、タブーとされる内容を扱っていることにも関連しているのだろう。つまりサルの子殺し、更には共食い(カンニバリズム)についてである。通常、我々はカマキリなど下等な生物は別として、高等な動物では同種同士の殺戮など人間以外は行わないと信じ込んでいるが、自然界ではしょっちゅう行われているという事実にまず衝撃を受けた。しかもそれはニホンザルのみならずインドのハヌマンラングール、マダガスカルのワオキツネザルやヴェローシファカ、更にはチンパンジーやゴリラなど人間にごく近縁な類人猿にまで及んでいることに驚きを隠せない。その詳細は、主に群れの赤ん坊ザルをヒトリザル(群のまわりを歩いている大人の雄)が襲って殺してしまったり時にはその一部を食べてしまうというショッキングなものである。ここで特筆すべきは著者がそれを単なる狂った行動と片付けずにその原因を追究していった姿勢である。何か異常な事件、例えば幼児誘拐殺害事件など起きた時に、我々は犯人の精神科通院歴などを発見して異常者の極めて特異な行動だと安心してはいないだろうか?実際にはそれが単なる心療内科であったりしてもだ。現在ではうつ病や不眠症、自律神経失調症、適応障害などで神経科や精神科、心療内科へ通うことなどごく普通に行われていることである。にもかかわらず一度事件が起きるとワイドショーは中学生の時の作文までひっぱり出して犯人の特異性を際立たせようと躍起になり、それが「やっぱりね」という翻訳機能を果たすことで人々は日常を取り戻すのである。しかし、こんな追求をいくら繰り返した所で、事件の真相には一向に近づけないし、原因を究明し未然に防ぐことなど到底おぼつかない。しかし、こうした犯罪が実は祖先から受け継がれたもの、つまり誰にでも起こりうることだとしたならばどうだろうか?
 著者がこれを狂った行動と片付けなかった訳は、子殺しを行わないか極めて少ないサルも存在するという事実である。種類によっても違いがあるし、同じ種類でも子殺しが行われるある特定のパターンというものが存在する。まず、1.単雄群に多く複雄群には稀であること。つまり強いボスザルと複数の大人の雄ザルがきちんと群れを統率していれば起こらない。2.メス優位の種では稀であること。雌の方が雄より体が大きい種類やボノボの様に雌が核となる社会では子殺しは起こらない。3.人為的条件によるもの。即ち、群れに何か混乱が起きた場合子殺しの引き金になるが、勿論それは自然発生の場合もある。例えば、ボスザル交代時や、自然災害による場合もあろう。しかし餌付け(人間の都合で始めたり止めたりする)や生態調査、更には開発による自然破壊などが大きな引き金になる場合が多いというのだ。つまりサルの子殺しの原因の多くは人間にあるという見方もできる。私はこれを現在の日本社会に重ね合わさずにはおれない。昨今、幼児殺害や児童虐待など子供の受難が叫ばれているが、これはバブルがはじけ、社会構造が大きく変わったこの15年余りで既成の概念が崩壊し、過剰な自己防衛に走る余り弱者を攻撃する大人たちの混乱ぶりとそっくりではないだろうか。著者は、人類の歴史の中で子殺しが定常的に行われており、その主な原因が「将来への不安」であると説く。まさに今こそ予測の見えない社会である。超高齢化社会、年金の不払い、グローバリズム、終身雇用の崩壊、数え上げれば切りが無い。 
 この後、著者はサルにも劣る人間の「わが子殺し」の原因を追究するため、ハダカデバネズミという哺乳類なのにアリやハチの様に女王ネズミや働きネズミがいるという驚くべき動物の生態を紹介する。人間が裸であることがハダカデバネズミと同じく真社会性社会(カースト、協同の育児、世代の重複)を営ませたと説く。かなり強引ではあるが故に面白い仮説である。特に階級制は人間社会の本質である、と言い切っている点は的を得ている。そして母系社会であった狩猟採集民から農耕社会へと移るにつれ、食料の過剰生産と生態系攪乱が増幅し、母親らに「将来への不安」を増大させたという。この説を読んで私は魏志倭人伝の邪馬台国の記述を思い起こした。
「倭国乱れ相攻伐すること歴年、及ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼と曰ふ。・・・・卑弥呼以って死す。男王を立てしも国中服せず。更相誅殺し当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女壱与、年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。」
母系社会のボノボ(チンパンジーより人類に近いという説もある)に子殺しがない
ことと重ね合わせ考えると興味深い。
 文明の発達が人間の子殺しを増大させたとする考えは、サルの子殺しが人為的攪乱が原因であるという幻想ではない科学的検証結果とダブってくる。その警告を真摯に受け止めるべきだと著者は説いている。しかし、その解決方法は説いていない。それは余りに壮大なテーマであり、本書の仕事の範囲ではないだろう。我々は本書を読むことで問題の根本に気づき、
ではどうすべきかを考え始めることこそ大切なのではないか。

 

 以前、「ネオテニー」http://blog.so-net.ne.jp/hanarezaru_bibi/2006-10-19 について書いた際、人間は”幼形進化(ペドモルフォシス)”であり、成体進化(ジェロントモルフォシス)の動物が周囲の環境に合わせて硬直した融通の効かない極端な進化を遂げた結果、環境の激変に対応しきれず衰退・滅亡していった中、人類は柔軟に環境変化に対応できる幼形成熟(ネオテニー)、言わば子供の受容力・柔軟性・心のひろさを進化の形として選択し繁栄してきたこと、古代及び農村では近代に至るまで、子供は神(六歳までは神のうち)であったことについて述べたが、子供に次いで男性よりネオテニー化が進んでいるのが女性であることは、丸みを帯びた体型や骨格に明らかである。そして女性もまた、古代から地方では近代に至るまで、青森のイタコや沖縄のノロなど巫女が示す通り、より神に近い存在であった。卑弥呼もその一人であろう。父系社会が行き詰まりを見せる中、人類本来の進化の形である母系社会への回帰も一つの解決の選択肢であろう。


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圧倒的静寂と透明感「となり町戦争」 [書籍/漫画感想]

となり町戦争

となり町戦争

  • 作者: 三崎 亜記
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/12
  • メディア: 文庫
 
 良いSFとは、どこの場所とか、いつの時代とか、そういう虚飾を極力排除して、自分の描きたい部分に特化して表現し、それでも読者(観客)を納得させる描写を持ち、しかも設定が希薄だからこそ、各々の空想の領域が大きく広げられる作品だと思う。本小説はその稀な成功例と言えよう。私がエンキ・ビラル「バンカーパレスホテル」や椎名誠「アド・バード」「水域」「武装島田倉庫」等で感じたそれらは、未来なのか異世界なのか、地球なのか別の惑星なのか、何のための行為なのか説明は一切なく、それでいて不自然さもなく日常生活の連続の如く唐突に淡々と始まり、読者(観客)は物語に投げ出されるのではなく、除々に異様な世界に足を踏み入れていく。
 どこか、いかにもありそうな名前の日本の架空の街。”クィア座”という存在しない星座(星座の形が変わるほど遠い未来?)と目に見えない高速で襲いかかる謎の兵器という二つの未来的事物を除けば、とり巻くのは携帯・車・PC・会社・お役所など全て現代社会の産物である。しかし隣り合った町で合法的戦争が可能というあり得ない法律から、バトルロワイアルやフリージアなど最近流行りの異世界ものであることがすぐにわかる。もっともバトルロワイアルの様な、戦争という言葉に触発される陰惨な殺し合いの話ではない。むしろその残酷的刺激への期待を全て裏切った、一切暴力表現のない、主人公と供に読者の戦争のイメージを根底から覆す意図で著者は描いている。では人は死なないのかというと大勢死ぬ。それは冷たい数字だけの死。丁度我々がイラクやパレスチナの紛争で何十人の犠牲者が出た、というニュースをネットで見ている様に、血の臭いも叫び声もしない戦争である。まるで忍者か必殺仕事人のように、人々は闇から闇へ、死ぬというよりは静かに音もなく消されていくのだ。その圧倒的静寂と透明感が生み出す、無力感、清らかさが独特である。もはや一体何の為に戦っているのか、敵は誰なのか誰にもわからない点は、イラク戦争など現代の戦争の無意味さを揶揄しているのだろう。また本質を見失いあくまで自己世界内に完結する戦争オタクは、今時の若者の壊れた人間性を指摘する。
 椎名誠のSFは生物名や地名のみに異常にこだわるが、公務員である著者のこだわりはひたすら「お役所仕事」、なかでも「手続き上の書類」である。何をするにも(戦争するのもSEXするのも)、フォーマットに従った文書を出し、法律・条例・規則に基づいて行われなければならず、そこに人間的感情の入る余地は最後まで無い。そして市長は天皇の如く君臨し、トップから底辺まで整然とした、有無を言わさぬカースト的猿山構造は、言葉つきが慇懃無礼なだけで公僕などという観念は全く無く、日本の冷徹な官僚支配を表しているかの様だ。主人公のごく一般人的視点から出た感想・意見は、こうしたお役所の職員の永田町的思考とは全く噛み合わない。
 こうした官僚機構の末端の存在であり、主人公を異世界へ誘う女性「香西さん」は、物語を支配するこれら静寂・透明・お役所的という要素を全て凝縮した存在である。それでいて母親であり、聡明かつ有能な女性であり、慰安婦であり、冷静であり、儚く、時に弱さや甘えも見せ、そして美しいという世の全ての男性の理想の女性であるわけだが、その言葉は時に刃の様に冷たく、決して最後まで感情に従って行動しない。これは現実の女性ではあり得ないと思う。”女心と秋の空”と言われるほど全ての女性は感情に従って行動し、常に理屈による制約から抜け出せない世の男性どもを悩まし、そして救ってしまうのだから。そういう意味で香西さんは余りにリアル性がなく、男性の視点から作られた女性像である。二人の性行為はまるで現実味のない夢幻の如きである。だからこそ全く嫌味がなく、その後に来る打ちのめされる様な悲しみ・痛みが主人公を読者を支配する。主人公は明らかに僕ら庶民の象徴であるが、香西さんが国家という支配体制の象徴かというとそうではなく、むしろ国家と庶民の間に透明な膜一枚隔てて存在し、その体温や涙や触覚を一瞬感じることはできても最後は常に国側に戻っていく存在である。それは悲しみや夢や希望や恋愛感情を持っていても、個人の意思を一切入り込ませる余地のない、戦争という神の如き、圧倒的且つ巨大な支配力の前に抗う術などない個人を象徴している。丁度、赤紙一つで召集されていく兵士の様に。その場で戦争の虚しさ・無意味さを唱えたとて一体何になろう。  
 そんな絶望的状況を敢えて戦闘シーンを描かずに(若干の逃走シーンがあるぐらい)、ただ女性の仕草や言葉のみで表現した著者の才能はすばらしい。本当の敵は目に見えない。我々はその見えない敵にいつの間にか支配され、気が付くとこの小説の様に例え戦闘行為が無くとも、戦争という極限状態の中に身を置く日が突然やって来るかもしれない、いや、もう既にそうなっているのかもと考えさせられる内容だった。決してハッピーエンドとは言えないにも係らず、読み終った後、希望が感じられるのは、主人公と香西さんの余りに純粋で瑞々しい、月の光の様な触れ合いが際立っているせいだろう。
  
バンカー・パレス・ホテル

バンカー・パレス・ホテル

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • 発売日: 2007/03/21
  • メディア: DVD
  • 水域

    水域

    • 作者: 椎名 誠
    • 出版社/メーカー: 講談社
    • 発売日: 1994/03
    • メディア: 文庫
    武装島田倉庫

    武装島田倉庫

    • 作者: 椎名 誠
    • 出版社/メーカー: 新潮社
    • 発売日: 1993/11
    • メディア: 文庫
    アド・バード

    アド・バード

    • 作者: 椎名 誠
    • 出版社/メーカー: 集英社
    • 発売日: 1997/03
    • メディア: 文庫

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「リアル」障害者は聖人ではない [書籍/漫画感想]

リアル 6 (6)

リアル 6 (6)

  • 作者: 井上 雄彦
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/11/17
  • メディア: コミック


 私は障害者ドラマとか嫌いだ。何か障害者を純粋な聖人とか生まれながらの善人とか特殊な才能を持つ超能力者の様に扱っているからだ。健常者と障害者が現実に日常を生きていくという感じではなく、どうしても両者の間に壁を作ってそこに悲しみや怒りや感動や恋愛感情のドラマを不自然に盛り上げようとする臭いが嫌いだった。
 だが、この「リアル」はそうではなかった。主人公戸川は悪人だ(爆)。彼はチームメイトを殴ってチームをクビになり賭け車椅子バスケをやって金を稼ぐというとんでもないキャラだった。作者が描きたかったことは「障害者は聖人」という枠というか常識をまず壊すことだった、と思う。その後、登場
したタイガースを作った虎もタトゥーなんか彫って決して善人キャラではないし、自らの愚行で障害者になった高橋もいじめはやるわ、煙草は吸うわ、歪んでるわやる気はないわで酷い性格だ。唯一の善人キャラであったヤマも病気が進行するにつれ人間的に弱く醜い部分をさらけ出してくる。といった具合に障害者と言えども健常者である野宮や高橋の両親と同じ人間的な悩みを抱えていたり、時には暴力を振るったり、悪意が芽生えたり、やる気をなくしたりするというごく当たり前のことを作者井上雄彦は訴えていると思う。要するに偽善的な作り物や、やらせではないドラマ、それが「リアル」だと思う。
 しかし井上雄彦は売れっ子だ。「スラムダンク」の根強い人気からバスケものを描いてくれという高まる社会的欲求は当然あると思うし、逆に「スラムダンク」のイメージから抜け出したいという思いからの直球でない変化球が「リアル」なんだと思う。主力作品は「バカボンド」だし、「リアル」はたまにしか連載しないから当然話もグダグダとだれてしまった。気が抜けてしまった。当時の「障害者は聖人ではない」というテーマから段々、障害の悲しみ、障害者を抱えた家族の苦しみというありきたりな障害者ドラマ展開になって来ている。もちろん戸川や野宮の人間的成長やタイガースの勝敗の行方、一向に進まない安積との恋愛関係など、明るい材料は色々あるが、最近はいずれも絵が雑で、顔がへのへのもへじの落書きのような状態が増え、やっぱり1巻の頃が一番丁寧で面白かったなあ。ナガノミツルの戸川協力もいまいち納得できる理由がないしな(ホモか?)。敵対してた方が面白かったよ。あとは高橋が野宮の仲介でいつタイガースに入るかだな。


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他人のソラニン [書籍/漫画感想]

ソラニン 2 (2)

ソラニン 2 (2)

  • 作者: 浅野 いにお
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2006/05/02
  • メディア: コミック

 いやに時代ズレした内容だった。辛うじて携帯は出てくるがネットもパソコンも出てこない。80年代の初頭のバンドブームの懐かしい臭いがする。そうさ!クラブがなんだ!ラップがなんだ!ダンスがどーした!あの頃はバンドやってりゃ格好良かったんだ。不自然に顔の黒い奴とか、意味もなくガタイの良い奴なんかいなかったんだよ。金もねえーくせに服代だけに何万もつぎ込んでみょうちくりんな格好してキメてると思ってる奴らもな。俺は手先が不器用で音符も読めないから楽器が弾ける奴は、無条件で尊敬しちまうんだ。悪いか!

 「ソラニン」はわが故郷が舞台だが、別にそれで好きになったわけじゃない(それを知ったのは単行本を買ってからだ)。なんだろう、仲間と酒を飲んで騒ぐバカバカしいノリ、大学の薄汚い部室とクラブ活動、それに音楽と夢。どれも絶対自分が二度と望んでも手に入らないものばかりだ。郷愁?かな。でもそれだけじゃない。キャラクターが美人でも美男子でもない等身大で、カッコ良くもなんともない。真剣にやればやるほど滑稽だ。だから遠い架空の世界の話ではなく妙に親近感を覚えてしまう。
 
 もちろん、美化されてる部分はある、多摩川はあんなに広かねぇー、河原はあんなに綺麗じゃねー。でも壊しかけの旧小田急鉄橋の描写は細かくて気にいった。しかし分厚い縁取り眼鏡の80年代丸出しのキャラはどうよ。小汚くてダサい服装はどうよ。あんなんで女にモテるわけねー。デブでセンスも金も将来もなきゃ今時、三次元の彼女がいるわけねー。でもまあいいや、と許してしまえる魅力がある。

 しかし”死”で話を盛り上げる展開は許せねぇよな。”死”をノスタルジーやせつなさとやらの為に安易に使う話は嫌いだ。大体、1巻で主人公殺しちゃったら後、続かねーだろ!って思っていたら、すぐ終わっちまいやがんの。がっかりだ。もっと青春の悩みをダラダラ続けて欲しかったぜ。まあ現実には悩み続けたら老人ホームレス、悩むのやめたら35歳過ぎて過労死かうつ病だけどな。そんな都合よく若いうちに綺麗に格好よく死ねるもんじゃないよ、現実は。

 ”ソラニン”の意味?そんなもの知らねぇ。歌詞からもわからなかった。「空のかなた」って歌詞があって最後、「空が高いや」って科白があるから、メラニンを空ニンに文字ったんじゃないの?(爆)。って調べてみたら、じゃがいもの新芽に含まれる毒?なんだそりゃ。だからジャガイモの芽が伸びてるシーンがあるのか。それで”芽”衣子と”種”田なのか・・・・。そういう目で歌詞を見直せば「悪い種が芽を出して」という文句があるなー、なるほど。日常に潜む毒=自由ってとこか。

 そう言えば、展開が

TO-Y 1 (1)

TO-Y 1 (1)

  • 作者: 上條 淳士
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1991/04
  • メディア: -

に似てるよな。トーイは死ななかったけど、もし死んでたらどうなったの?ていう返礼がこの漫画なのかもって思った。両者は、方や非現実的な187cmの超2枚目、方や眼鏡顔のさえない男と相反するが、どちらもさえないバンド生活から始まって、まとわりついて応援する女がいて、やがて業界の目に留まり、プロデビューの話が来て別れ道になる。片方は引き受け、アイドルのバックバンドを経て頂点に達するが最後は嫌気がさして引退、バイクで事故るが死なずにマイナー音楽の世界で生き続ける。片方はアイドルのバックバンドを断りバイクで事故って死ぬ。他人の空似かもしれないが、妙に符号が一致する。象徴的なのは歌詞。トーイは一度も歌詞を口にしなかった。いつも口を空けて唄ってる状況証拠だけで読者を唸らせた。妙に生々しい歌詞をだしちゃうと現実的になりダサいと言われるの恐れたんだろうが、はなっからダサい種田はそんなこと気にしない。その思いっきりダサい歌詞も歌声も臆面なく吐き出される。作者は「現実はそんなに甘かねぇー」って言いたかったんだろうか?漫画的に考えれば、アイドルバックバンドを受けるにしろ断るにしろ最後は音楽的に成功するか、サラリーマンになって結婚でもして子供作ってあの頃はと回想して大団円となるのだがそれには芽衣子と種田の性格も変えないといけないのでそれはしたくなかったのかもしれない。作者のキャラへの強い思い入れが逆に種田を死なせてしまったのかも。

 芽衣子はいいキャラしてるよね。ヒラメ顔にソバカスだらけで純情で放任主義の親がいて、地方出身の一人暮らし。相手が貧乏でもブ男でも夢さえあれば愛さえあればついて行く。いやあこんな女は男の夢だね。種田のどこがいいのかさっぱりわからない。多分アヒルの摺りこみ現象でしょう。
デブで油ギッシュのくせに年上にも年下にももてる許せないキャラの加藤。これも男の夢だね。東京生まれの東京育ちでバイクなんか乗ってワイルドで背が高くて性格も良くて職も安定してる本来なら一番モテそうなビリーが彼女がいないっていう設定も笑える。種田は自殺じゃねえと信じたい。一番辛い部分をすっとばして書いてる作者はずるい。でも最後に、芽衣子が種田のギターで唄うシーンは、癪に障るけどグッときた。

 その他、ビリーが薬局の店先のカエル人形に「お前の人生って何なんだ?」と躍りながら問うところは最高。それは人間じゃねぇ!って思わずツッコミを入れたくなる(爆)。特にカエルのあっけらかんとした表情と動作がなんとも言えずシュール。あと、加藤が就職が決まった時「なんだこのモヤっとした気持ちは?」とベースを弾きまくるシーンも笑えると共に、前に進むことへの戸惑いを的確に感じさせる。

 夢と常に向き合いながら生きていくのは苦しいし辛いよね。ついついよそ見をして逃げ出したくなったり、そんなことは意味がないと鼻で笑って現実社会に埋没してしまうけど、人間いくら金があっても希望がなきゃ生きていけないことは、今の自殺社会がよく示しているよね。夢は掴んじまったらそれまでだが、叶わなければ死ぬまで追える。俺もピーターパン症候群と言われようが、いい加減落ち着け、と言われようが死ぬまで夢を追い続けて行くことの正しさをこの漫画を読んで励まされ再確信したのさ。


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子供礼賛社会の復活を! [書籍/漫画感想]

 

ネオテニー―新しい人間進化論

ネオテニー―新しい人間進化論

  • 作者: アシュレイ モンターギュ
  • 出版社/メーカー: どうぶつ社
  • 発売日: 1990/07
  • メディア: 単行本
断っておくが、私はすべての高齢者の方が非常識で乱暴になっているなどというつもりは毛頭ない。私の知り合いにも素晴らしい高齢者の方が何人かいらっしゃる。その方達は、控えめで、かと思うと時に子供の様に無邪気で初々しい面を持ち、人前で決して怒鳴ったりせず、決して奢らず、文学的・詩的表現に溢れた言葉使い、洗練された仕草、経験と年輪の深さが醸し出す、輝くような美と知性に満ちている。本日(10/19)の「徹子の部屋」ゲストの青木十良さんを見よ!91歳で現役チェリストだぞ!しかも常にその控えめな物腰と子供の様な笑顔、謙虚で決して奢らず1日3時間の練習は欠かさない、そしてなんと若々しく、肌もつやつやで、姿勢もシャンとし、喋りもしっかりしていて、とても91には見えない。あの様な”美しい年の重ね方”をしている人に私もなれたら良いなあ、と思うし、そういう人には、電車で席をバンバン譲ってあげたい!(でもそういう方たちは大抵一回、遠慮するんですよね、「いえすぐに降りますので大丈夫ですよ」なんて言って。う~ん謙虚だ。それに引き換え、電車のドアを背中で押さえて自慢している様な奴には絶対に席を譲らん!)。 ところが最近、石原都知事を代表とする、やたら言動が乱暴で恫喝的で、偉そうで、すぐキレる高齢者の方が急増している。ちょっと店員の態度が気にいらないと言って怒鳴り商品を床に叩き付けて壊したりする有様を私は良く見かける。彼らの苛立ちもわからないではない。かつて会社内等で高い地位を持ちガンガン人を偉そうに命令してた人達が定年になった途端、家では邪魔者扱いで社会でも居場所がない。おまけに世の中デジタル化・電子化が進んでやれ携帯だのインターネットだの自分たちがわからない世界が広がり、「そんなことも知らないんですか?」と青二才どもに馬鹿にされる始末。彼らは自分達だけが戦後の日本を復興してきたという強烈な自負による勘違いをしているだけに始末が悪い。実際は今日の日本を腐敗させているのも彼らなのにも係らずだ。しかも今、日本で最も金持ちで最も国を支配しているのは、この恫喝的な高齢者達だ。

 さて、この本は、結構古いものだが、人間は他の動物に比べて赤ん坊の時の形質を成人になっても多く残していること、人間の大人と類人猿の幼児が非常によく似ていること等から、人間は、幼い形のまま成長する生物として”幼形成熟(ネオテニー)”であるとする内容が書かれている。ネオテニーで有名なのはウーパールーパーの名称で親しまれる両生類アホロートルである。彼らは性成熟してもアルビノで鰓の付いた幼生形のまま一生を終える、しかし水位を下げたり、紫外線を当てると成体型(体色が黒くて肺呼吸)に変態することも知られている。 当書物では類似猿の幼児が顔が平たく顎が前方に突出せず、高等部も丸いことを上げて、その形態が人類に良く似ているのに、成体になると顎や歯が強大化し、前に突き出る反面、脳の大きさはそのままであるのに対し人間の成体と幼体では頭骨に大きな差はないことに着目し、人間は”幼形進化(ペドモルフォシス)”であり他の類人猿は成体進化(ジェロントモルフォシス)であると説く。さらに筆者は人間は大人に育つよう作られておらず、身体のみならず精神も幼児的特徴を保持し強調する方向で進化する生物だ、と説く。 確かに成型進化の生物は、周囲の環境に合わせて硬直した融通の効かない極端な進化を遂げた為に環境の激変に対応しきれず滅亡してしまった例が多い。代表的な例は恐竜だが、我々人類も過去にアウストラロピテクスからよりサバンナの草食に適した顎や矢状稜が発達したパラントロプスへと進化した者がいたが、結果、環境変化や生存競争に勝てずに絶滅し、一方でよりネオテニー的な進化へと進んだホモ・ハビリスが生き残り我々人類へと受け継がれた。今日の類人猿を見るとオラウータンにしろゴリラにしろボノボにしろ全て絶滅寸前であるが、それは人類の祖先が二足歩行を始めた500万年前(700万年前とも言われる)から既に気候が寒冷化し、ヒトを含めた大型類人猿の衰退は始まっていた。そこでより柔軟に環境変化に対応できるネオテニーが進化の形として選択されたのであろう。「悲しむべきことは殆どの大人は、成長するにつれ学習意欲が失われ、知識や理解を積極的に追求しようとしない。まるで20の頃までに全ての知識と方策を身に付けてしまったと信じ、わずかばかりの知識や知恵の蓄えを殻で覆うようになるそして何か新しいものによってこの殻が破られようとする時、莫大なエネルギーを使ってそれに抵抗する。大人の心的硬化症は、子供の受容力、柔軟性、心のひろさとは大違いである。」{「ネオテニー」より}まさにこれこそが、今の膠着した高齢化社会の腐敗した姿ではないだろうか。この社会では”想像力”や”好奇心”、”素直さ”、”正直”は時に馬鹿にされ、、時に不作法とされ、非難される。彼らはピーターパン症候群などと呼ばれ蔑まれる。  古代の日本及び、農村では近代に至るまで、子供は神様であった。生児をこの世にもたらす出産の行為は、あの世とこの世の中間領域であり、「六つ前は神のうち」という言葉もある様に、6歳までは魂も安定しないと考えられていた。鳥追いなど子供は常に祭祀の主役であった。小正月(1月15日)には、イミゴモリ(忌み籠り)という、祭りの為に日常的生活からヨゴレ・ケガレを取り除く行為から、子供たちが小屋を作った。セエノカミ(賽の神)といいドント焼き・左義長の変形で、煤払いの竹や正月の松飾を集めて小屋を作り、子供達が一晩過ごして、次の日小屋を焼き、小屋のご神体である男根の形をしたドウロクジン(どうじん棒)を部落間で取り合う。また2月上旬の初午には稲荷講といってやはり子供たちが丸太を組んで筵を掛けた小屋を作り煮炊きをして泊まる。子供はナマハゲや節分の鬼と同様、世界に共通する、年の変わり目に出現する異型の者(サンタクロースも元を正せばそうだろう)で、農耕を祝う神を表している。また子供たちが小屋から出る行動は、再生(誕生、豊饒)を表している。日本のあらゆる所で行われていたこうした祭りは、残念ながら火事や防犯の懸念から今では、本来の目的とは異なる文化財保護的な物を除いて、殆ど行われなくなってしまった。一方で、老人たちの支配は強まり、 「年寄りは尊敬されるべき存在であった。政府は白髪の男たちによって運営され、帝国の支配者-フランツ=ヨーゼフやビクトリア女王-はむしろその長命ゆえに尊敬された。世界を動かしていたのは老人たちであり、家族は再年長者の意志に従っていた。」{「ネオテニー」より}この見立ては現在の日本社会と殆ど変わっていないと見てよい。  最近の日本では少子化の悪影響で益々、社会を支配する高齢層たちは、自分達の社会的地位を守るために横暴になり、児童への悪辣な攻撃をしかけている。その象徴とされる事件が最近2つ起きた。1つが、「福岡中2自殺事件」あの校長の事勿れ主義、隠蔽体質を象徴する言動はどうだ。「いじめはなかった」→「担任によるいじめがあった」→「いじめを自殺に結びつけるのは危険」→「ちょっと手を抜いてしまいました。プレッシャーを与えていたかもしれない」と発言はその場しのぎで二転三転し、そのどれも自分の校長という地位を守るためで誠意・謝罪・反省の意志は全く認められない。彼らにとって大切なのは子供の命ではなく、自分の社会的地位でありそれに伴う金である。  もう一つが「奈良妊婦死亡事件」である。脳内出血を起こしていた妊婦を18箇所以上も病院は受け入れ拒否にした挙句、死亡させたこの事件。大淀病院の内科医はなんと言ったか「陣痛からくる痙攣と思った」 陣痛ならたらい回しにしてもいいのか!?これは産婦人科の設備・医師の決定的な不足が露呈した事件である。なんだかんだ言っても医者は今や客商売であり、患者の少ない産婦人科や小児科を作るよりも老人向け病院を作った方が儲かるからであり、結果、小児科、産婦人科はどんどん無くなり、子供を生むのが益々困難、命懸けとなり、益々少子化が進むという悪循環に陥っている。医師会から多額の献金を貰う政府はこれに対し何ら具体策を打ち出せず、少子化を母親個人の意欲不足のせいにして、託児所・保育園の整備・育児休暇など表向き女性の働き安い職場を作るというトンチンカンな政策をしているが、これらは企業において殆ど機能しておらず、まして産婦人科・小児科の減少にはなんら有効な政策を行っていない。これでは安心して出産・子育てなどできるわけがないのだ。近頃の女性に聞くと出産はとても恐くてできないという。この事件はそんな風潮を益々助長することになるだろう。 「もしネオテニーが身体的特徴だけに留まらず行動パターンにも伝えられるとしたらまさに人類の生活革命が可能となる。そして期待される姿の生物、すなわち一生を通じて若々しい生物になりうるだろう」{「ネオテニー」より}我々はもういい加減硬直した老人どもを崇拝するのはやめて、かつての日本人がそうした様に、もっと子供を尊重し、子供に畏敬の念を持ち、子供に感謝して生きるべきではないか!子供が安心して遊ぶことのできる、存在できる居場所を増やしていくべきではないか!残念ながら、今の社会は、将来への不安による「弱い者苛め」という卑怯な感情から益々、子供の居場所を奪い、社会から廃絶しようとしている様に見える。それは人間の本来の進化の道筋から外れ、滅亡の道へとひた走ることになろう。
日本民俗学概論

日本民俗学概論

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 1983/01
  • メディア: 単行本
人間性の進化―700万年の軌跡をたどる

人間性の進化―700万年の軌跡をたどる

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞社出版局
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 大型本

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のび太はデスノートに剛田武と書くか? [書籍/漫画感想]

Death note (12)

Death note (12)

  • 作者: 大場 つぐみ, 小畑 健
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/07/04
  • メディア: コミック


 こんなこといいな、できたらいいな、人を自由に殺りたいなー、はい!デスノート!あんあんあん~♪
 てな具合で、ドラえもんがのび太にデスノートを出してあげればジャイアンの名を書くに違いない。
しかし、ネット上でドラえもんとデスノートのコラボがとても多いのに驚きました。やはりみんな考えることは同じなんですね。「ドラえもん」と「デスノート」って似てますよね。未来=死神界から突然やって来たロボット=死神が、少年に未来のおもちゃ=デスノートを授け、それによって少年は超能力を発揮するが、未来のおもちゃ=デスノートに不具合があっても、ロボット=死神はなんらメンテナンスも責任も負わないため、主人公の思い通りにならず、結果、未来のおもちゃ=デスノートの能力が返って主人公を不幸にするというくだりが。ドラえもん=死神は、未来のおもちゃ=デスノートの管理者ではなく、伝達者(管理者は、未来人=大王)であり、未来のおもちゃ=デスノートは、ドラえもん=死神が絶対逆らえないルール=掟に縛られており、時には、未来のおもちゃ=デスノート自身がドラえもん=死神を危険にさらすこともある。だから未来のおもちゃ=デスノートに対してドラえもん=死神は全く無責任であり、総て使用者の自己責任に任せている点もそっくりだ。のび太はキラであり、のび太=キラの終始味方である女性陣(ミサ&高田)はしずかちゃんだ。L=ニア=メロはキラ=のび太の敵であるジャイアンであり、のび太=キラは何とかジャイアンに未来のおもちゃ=デスノートで勝とうするが結局負けてしまう。そして叫ぶ、「何とかしてよ、ドラえもん=リューク!」と。だがドラえもん=リュークはあくまで冷徹である。最も彼らは人の血が通っていないのだから当たり前であるが。スネ夫はさしずめ、キラの敵になったり味方になったりする日本警察あたりか。

 私は流行っている物を流行っている時に読むのは元来、好きではない。なぜなら、「流行っている割には面白くない」とか「流行っている物だから当然、面白い筈」といった、流行っていることで、その物に対する正当な評価が出来なくなってしまう恐れがある。そんなわけで「デスノート」も暫く放っておいたが、親戚の子が持っているのを見せてもらい、絵の感じが「レベルE」に似てたので、思わず買ってしまったら、著者自身も認めている通り、やたらと科白が多いので、4巻あたりから読むのが苦痛になってしまった。大体、推理ものって好きじゃない。こらえ性がないので、考えたり推理するのがめんどくさいというか、推理するぐらいなら答えみちゃえ!っていうタイプなので、正直「デスノート」もかなりすっ飛ばして読んだ。途中の細かい理屈はなんだか良くわからないし追求する気もない。そもそも自分の都合良い様に、ルールを次々と変え、登場人物を次々と増やし、増えすぎたらデスノートでお手軽に始末すればいいのだから、作成側は楽そうである。そして主要人物の2,3人以外は細かい性格描写もなく、登場人物全ての性格が極めて短絡的で単純である。何よりも,Lを初め、顔がツルっとしてて能面みたいで皺がなくて綺麗である。人間臭くないというか、最後に夜神月がキラとばれて人間性を発揮するところまでロクに血も流れない。しかもグダグダと引き回した割にラストはよめる展開であり拍子抜けであった。
 なんといってもこの物語の主人公はデスノート自身であり、死神自身も知らないデスノートの謎解きとルールの追加が話の主眼である。自らの手を汚さずどんな人でも自由に殺すことが出来る究極のマジックアイテムは、五寸釘の藁人形を例に上げるまでもなく、人類の夢である。いじめっ子、口うるさい親、偉そうな上司、嫌味な客、振られた女、奪われた新しい彼氏、旦那の浮気相手、ホームで煙草吸ってるバカ、電車のちかん、生意気なガキ、優秀な同僚、右翼のナショナリストの大統領、バカな政治家、軍国主義者、違法森林伐採者、密猟者、原子力発電推進者などなど、あー話わからねー奴、頭に来る奴、俺のことをバカにしやがっての奴、地球の未来を破壊する奴なんか、いっそのこと、って誰でも一度は、大なり小なり思うよなあ。思うだけなら自由でありなんの罪にもならない。デスノートの罪の意識が希薄なのはそんな思う行為に近いからであろう。この殺伐とし狂った現代社会では人間、殺意の一つや二つ、毎日持って暮しているのが当たり前である。         
 TV版「大草原の小さな家」の「ローラの祈り」では、インガルス家に初めて男の子が出来、両親はその子で夢中で主人公ローラがテストで良い点を取ってもちっとも聞いてくれないので、自分を両親から奪い取ったその男の子が死んでしまえばいいと思った所、本当に病気で死んでしまうという話がある。ローラはその事で悩み、自分のせいだと思い込んで一人で山に登り神に生き返らせる様、願いを乞いに行く(これは呪術的思考と言って、自分の考えがそのまま物事を引き起こす原因になると信じることである。通常、我々は、こうした思考を卒業し、思春期には人間には考えるだけで外界の出来事を支配する力はない、と確信するようになる。しかし最近、卒業できない者がやたらと多い)。 しかし夜神月は5日しか悩まずその間も人を殺し続けた。他の使用者、ミサや火口やメロや魅上や高田に至っては何の罪の意識もない。こんな人たちが存在するだろうか。もう少しその辺の心理描写を大切にすれば深い作品になるのだが、むしろこの作品にそういった深みは邪魔になるのかもしれませんね。
 また、レムは雌の癖にミサの為に命を捨てるのも全くわかりません。「私の意地」なんて理由で不死身の死神が人間の為に命捨てたりするかあ?雄の死神なら恋愛感情で理解できるが。レムはひょっとしてレズ?(爆)。でもそんな感じでもないなあ~。
 この作品では、やたら名前にこだわる。私は自分の名前にそんな重要性を感じたことはないのだが、とにかく名前にこだわる。そもそも結婚とか養子とか親の離婚とか財産相続とかで苗字が変わった場合、デスノートはどう扱うのか?最初の名前なのか?戸籍上の名前なのか?さっぱりわからない。またLIND・L・TAILORを殺したとき、ミドルネームはLで省略したが、それでも殺せるのがよくわからない。漢字だって名前はやたらと難しいぜ、制限漢字とか常用漢字とかあるし、渡辺だって何種類もあってその都度省略する人もいるよなあ。アルファベットだって大文字と小文字があるし、まして英字ならまだしも、イスラムなんかどうすんだ、アラビア文字書くのか、韓国人はハングル書くのか、とか色々疑問が湧いてしまう。結局の所、キラは世界中の文字に精通していなければ、新世界の神にはなれないわけだ。いやあ大変そうですね。神になるのは。
 ノートのページがなくならないってのも恐いですね。生えてくるんですかね、ページが。ひいい~!
 キラたちは、名前を書き間違えませんが、消しゴムで消しても訂正できないから、間違えるといちいち書き直して超面倒です。そもそも俺の汚い字なんて識別してくれるのか?(爆)
 ともあれ、こういった作品が、若者がゲーム感覚で殺人を犯すことを助長し、凶悪犯罪をなんの罪の意識もなく行ってしまうことが増えるのではないか、などというもう何十年も前から繰り返されてきた陳腐な警告など今更、言うまい。どんなに残酷で奇想天外な作品が出ようと、読むだけなら何の罪にもならず、また、それらの作品を少年たちの目から完全に隔離することが不可能な現在、情報を与えないことは寧ろ検閲である。子供の頃、本をたくさん読み多くの人と話すことで現実と空想の世界をきっちりと識別させる能力さえ身につけさせれば、大きくなってから、リセットするため家に火をつけるなんてバカな青少年も出てこないはずなのだが・・・。

レベルE (Vol.1)

レベルE (Vol.1)

  • 作者: 冨樫 義博
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1996/03
  • メディア: コミック

大草原の小さな家 第1集

大草原の小さな家 第1集

  • 出版社/メーカー: 東芝ファミリークラブ
  • 発売日: 2001/09/17
  • メディア: ビデオ


死んだ子供を生き返らせる為、更に高い山へ登ろうとするローラ。そんなローラを助ける謎の老人。探しにきた父に紹介しようと振り返った時、老人は忽然と姿を消す。果たして老人は神だったのか?当時は子供心に感動した作品。子供はデスノートばっかり見てないでたまにはこういうのも(爆)!


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終わらせる気なし! [書籍/漫画感想]

BASTARD 24―暗黒の破壊神 (24)

BASTARD 24―暗黒の破壊神 (24)

  • 作者: 萩原 一至
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/07/04
  • メディア: コミック

こらハギワラ!しょーこりもなく、また登場人物ごっそり増やしやがって!
また活動範囲広げやがって!新しい大陸とかって、北斗の拳かおめーは
おまけに禁じ手のホビビット(爆)やドワーフなんか出しやがって、完全にロード・オブ・ザ・リングのパクリじゃねえか!
また、昔のキャラ、何度でも生き返らせやがって!!ヤマトかおめーは!
ほんでもって収拾がつかなくなると何年後、とか行って設定を全部0にして、過去の話とは何の脈絡も無くしちゃうから、益々つじつまが合わなくなる。もうどーしようもないな。
そうやってバスタードも19年。いや~長い。19年で24巻だから一応、1年に1巻以上の割合なんだなあ、意外だ(爆)。途中、相当お休みがあったけどねぇ~。ていうか前巻出たのいつだったか忘れたよ(爆)。この人、これ以外ほとんど描いてないよな。
1巻のころは、1ページもなかったあとがきも、巻を追う毎に14ページに増えて、今やそっちに力点が置かれいるのではないかと思えるほど。上條淳士といい、江口寿史といい、私の好きな漫画家はみんな最後は、漫画が描けなくなって只のイラストレーターになってしまうのだが、萩原一至はイラストに留まらず、同人誌に始まり、やれ小説だの、ゲームだの、エッチ本だの、萌え系だの、バクロ本だのと相当、副業で稼いでいるようだ。俺はそういう物には一切金を出してないけどさ。やっぱりストーリーを考えるのは大変なんだね~。
そもそも、天使だのサタンだのを登場させて罰当りなこと描いてるから体調がよくならないんだ、きっと。今回は、仏教まで登場させやがって仏罰に当るよ(爆)。
でも、まるでやめられない煙草のようについ買ってしまうんだよねえ、ここまで投資して結末が見れなかったら悔しいじゃん。でもこの人、絶対まともに終わらすつもりないよね。もう打ち切りって思ってると復活するし。一生これで食ってくのかなあ。早く終わらせなさい。


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リズミカルな奈落「嫌われ松子の一生」 [書籍/漫画感想]

嫌われ松子の一生 (上)

嫌われ松子の一生 (上)

  • 作者: 山田 宗樹
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2004/08
  • メディア: 文庫


 そのヘンテコな題名が単純に目に止まって、本屋の店先でパラパラとめくった。なんだ、在り来たりな俗っぽい女の転落物か、と思って買わずに帰った。映画化の話も後から知ったぐらいだ。ところがその後もなんとなく気になリ、翌日もまた立ち読みをしてしまった。その翌日も何ヶ所か拾い読みし、結末まで見てしまった。普通ならここまでしたらもうその本は買わない。ところが読めば読むほどその場面、展開がどうしてそうなってしまうのか、気になって仕方がない。そして遂に上下巻購入してしまった。案の定、結末がわかっていてもグイグイ引き込まれる展開、あっという間に読めてしまった。久し振りに先の展開が気になる小説に出会った気がする。通常、女一代転落人生記なんていうと昼メロのようなドロドロしたイメージがあるが、この小説は全く救いがない内容にも関わらず、場面場面を読み終えた後、スカっと爽やか、まるでビールの最初の一口の切れの良さのように爽快感さえ漂う小気味良さに満ちている。とにかく話のテンポが良い。主人公松子や脇役めぐみのサバサバした性格の反映したように次々と起こる事件・現実を引きずらずに流し、リズミカルに行動が進んでいくところが読者を飽きさせない。特に私は飽きっぽいので、ダラダラした心理描写などうんざりしてしまうのだが、本小説はそうした心の葛藤表現を最小限に食い止め、あくまでストーリー展開を重視した内容となっている。その結果、「それは有り得ねーだろう!」と思ってしまうような非現実的展開、松子の極度に短絡的な行動、偶然が重なるご都合主義的な筋立ても、ふんふんなるほどと納得させられてしまうのだ。いや、それにしても凄まじい転落人生、こんな展開は絶対にないよとは思っても、果たして世の中にゴマンといる風俗嬢の方々はどの様な経緯でそうなったのかは知る由もないことを考えると誰だって子供の頃からその様な人生を送るとは夢にも思っていないだろう。まして松子ほど転落人生でないにしても私自身、人生の転機にあーしていれば、こーしていればと思うこと山ほどあるし、「私は今まで後悔なんか一度もしたことない」なんて外向きな発言を言ってる奴の方が逆に信用できない。後悔したことない奴なんていないだろう。そして人生の一寸先は闇。それは松子だろうが我々だろうが、誰だろうが程度の差こそあれ、皆同じなのだ。特に今の社会では。
 人生を生きるのに必要なもの、食べ物とかそういった物理的なものの他に必要不可欠なものが”目的”か”快楽”である。目的は大金、異性、社会的地位や名誉、マイホーム、子供を有名大学に入れる事、などなど人により様々である。快楽も睡眠、大食、セックス、酒、賭け事、麻薬等々たくさんある。もちろん目的だけでは辛くストレスも溜まるし、快楽だけでは自堕落に溺れて破滅するので両方少しずつあればバランスが取れて申し分ないのだが、残念ながら大半の人がどちらか一方に偏った生活をしている。言わば、例えば方や仕事に追われて寝る暇もないサラリーマン、方や生きる気力もなく地べたに横たわるホームレス。松子の人生は正にこの偏った局面局面を反映した人生であったように思う。それは格差社会と言われる今のゼロサムの極端な世相を反映しているとも言える。私自身、いや今を生きる同世代の多くの人がこの15年余りの間に味わった喪失感、絶頂と底辺を端的に表しているからこそ、共感を呼ぶのだろう。順風満帆の退屈な人生が本人も抗えない、スリリングな、何か社会の大きなうねりの様なものに動かされ(でもその時は原因が全くわからない)、気がつくととんでもない所にいる、あれ?なんで自分はこんな所に居てこんな事をやっているんだろう、とふと我に返ることが私にも誰にもあるのではないだろうか・・・・・。
 最後に松子は、どこへ行くにも化粧を気にしている描写が目立った。ちょっと出かけるにも口紅を塗って、という記述が入った。最後、転落し切ってぼさぼさになった時、化粧をしなくなり、そこで昔の友達に会って、消えてしまいたくなったと言っている。松子の転落の原因はこの化粧にあったのでは?家族や他人に自分を必要以上に良く見せようと見栄を張り、常に周囲を気にし他人に振り回され、自分の本心を臨界点まで見せず、見せた時は爆発してしまうその人生の象徴が”化粧”という”取り繕い”なのでは?もっと早くすっぴんで人生を送っていればこんなことにはならずに済んだのに。改めて他人の目を気にせず自分の幸せだけを求めて生きる勇気の難しさを感じた。そして、この国において人生をリセットしやり直すことが限りなく不可能に近いことも改めて思い知った。

少女地獄

少女地獄

  • 作者: 夢野 久作
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1976/11
  • メディア: 文庫


目を縫い合わせた様な表紙のショッキングな絵と題名に惹かれて購入。内容は期待したほど衝撃的ではなかったな。第三者をして主人公の女性を語らせる手口は「嫌われ松子」に似てなくもない。手紙形式という形も面白い。でも主人公の転落動機にいまいち納得がいかない。しかし救いの無さに関してはもう、どん底級。それにしてもさすが狂人、こんな文章が思いつく頭の中は一体どうなっているのか・・・・。



悪女について

悪女について

  • 作者: 有吉 佐和子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1983/03
  • メディア: 文庫


「嫌われ松子・・」と小気味良いテンポのストーリー展開がある意味似ている。段々と謎が明かされる推理小説風な所も。ただ、主人公の女性本人は決して語らず飽くまで第三者の証言に語らせる手口はこちらの方が徹底している。転落度合いは「松子」の方が上。この小説はどちらかというと女性の成り上がりもの。但し、結末の救いの無さは一緒だが。本人に救いがない分、せめて次世代に自分を思ってくれる人がいるという希望を残した所も似てる。


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菌類を崇める話  「蟲師」 [書籍/漫画感想]

蟲師 (7)  アフタヌーンKC (404)

蟲師 (7) アフタヌーンKC (404)

  • 作者: 漆原 友紀
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/02/23
  • メディア: コミック


 本作の蟲師は片目だし、妖怪退治ということで鬼太郎に似てるなぁと思った。また、やはり片目で白髪で銜えタバコ、且つ時代設定が江戸~明治と現代がごちゃまぜの内容に「サムライガン」(の七号丸市松)にも似ていると思った。設定は諸星 大二郎「妖怪ハンター」を彷彿とさせるものもある。もっとも本作品の中で蟲師自身の行動原理だけはよくわからない。どこか世捨て人の冷たい突き放したイメージがあるが、困った人を助けてしまう人情ぶりも持ち合わせ、決して金銭の損得だけでは動いておらず話ごとに異なった、ストーリー上都合の良い矛盾した人間として描かれている。
 当漫画に出てくる”蟲”が昆虫よりも植物系(菌、竹、稲、蔓)と思われるものが多いため一番最初に思い出したのは「ケサランパサラン( ケセランパセラン)」である。
「東北地方を中心に江戸時代から現在に至るまで語り継がれている謎の生物。見た目はフワフワした白い綿毛のようで空から舞い降りてきて幸福を招き、白粉を食べて大きくなると言われている。ケサランパサランを箪笥の奥にしまっておくとその家に幸福をもたらすと言われており、東北地方の旧家などでは娘が嫁に出るときにケサランパサランを母から娘へと小分けする風習がある。 最近では1970年代後半にケサランパサランを飼うことが全国でブームとなったことがあり、その時はケサランパサランは何でも願い事をかなえてくれるが、一つの願いをかなえるたびに一匹ずつ消えていってしまうとされていた。 一説によるとタンポポモドキの冠毛だと言われている。他にも柳の種子の綿毛や獣の胆石・腸内結石、毛球や綿虫といった多くの正体が囁かれている」(ウィキペディアより)
流行した頃は、NHKでも取り上げられ、「ファンデーションでも飼えるの?」(爆)などとという質問に出演者が真面目に答えていた記憶がある。
私も建て替える前の木造の実家でケサランパサランらしきものを見たことがある。当時の家には西北の角部屋の中二階の和室があり、その畳の上に五百円玉ぐらいの綿毛のような物がぽつんと落ちていた。たんぽぽの綿毛に似ているがもっと大きくて、中心から均等に毛がまっすぐに生えた円形で、茎の様なものはない。ただ当時テレビで紹介していた物よりは毛の密度が薄いためケサランパサランではないかもしれなかったが、怖くて捕まえることはできなかった。2、3日は居たように思うがしばらくしたら姿を消していた。当時、私の部屋も西北の角部屋で金縛りにもよくあったし、霊らしきものも見たことがある。コンクリートに建て替えてからはそういう現象は全く感じなくなった。何か方角や家の作りが関係しているのではと勝手に思っている。

 次に思い出したのは”憑きもの”の話である。作者も合間に狐の話を載せていたが、この漫画を読んで作者は西日本の生まれではないかと最初に感じた(後で中国地方出身であることを作者自身が書いていたが)。というのも話の内容が、蟲の取り付きが一過性のものでなく一定の家筋となって伝承される事が多いからである。
 民俗学を学んだ方には釈迦に説法であるが、”憑きもの”とは霊が付着することにより心身に変調をきたしたり、不思議な能力を身に付けたり、時に子々孫々に渡り運命を左右される現象で、「憑く」「使う」「持つ」の3種類に区分されるが、傾向的に山伏など宗教者が憑き物を使って呪詛、祈祷などを行う話が比較的、東日本に多いのに比べ、西日本ではごく普通の農民の家筋に動物霊などが付着して周囲に影響を及ぼす傾向が強い。特に山陰の狐と四国の犬神が顕著である(そういえば水木しげるも山陰の境港出身である)。当漫画の主人公は蟲使いではあるが、宗教者ではなく、しかも一話完結の中で主人公ではなくどちらかというと脇役でキャラが立たない。主役は飽くまで憑き物(蟲)を持つ農民、漁民などである。

動物霊としては狐と犬の他に、蛇(トウビョウ、トンボガミ)や蛭なども多く、当漫画にはこの傾向が強い。山のヌシの話などではヘビそのものが登場するシーンもあった。もっとも狐にしても憑く物とはキタキツネに代表されるようなイヌ科の哺乳類ではなく、その形状は、実際の狐はおろか、お稲荷さんともほど遠いものであり、形は鼠かイタチぐらいで、蛙に似ているという物(静岡のクダ)もいる。前述のトウビョウも地方によっては蛇ではなく狐とする所(山陰)もあり、その境界線は曖昧である。
狐については中部のクダの他にも関東のオサキ、関東~東北のイズナ、山陰のニンコやゲドウ(犬神との説もある)、九州のヤコなどがいるが、特にクダに関しては山伏が竹筒(管=クダが名の由来)に入れて飼って祈祷に用いる話や、クダが爪の間から入り皮膚の間に住みつき瘤になる話が肥前の「甲子夜話」に伝えられており作者も影響を受けているのではないか思う。また佐賀では狐に憑かれることを「カゼを負う」といい、狐が、風邪と同義だったり、地方によっては吹く風(悪い風が吹くなどという)と同義だったりする例も、本作品の蟲に取り付かれると病気になったり凶作になる話とリンクしている。
 また、本作品では、蟲に取り付かれた者が嫌われているにも係らず、食物を分け与えるなど村全体で養護されており、これなども実際の狐持ちや犬神の話に通じるものがある。中国・四国地方ではこれらの血筋が、憑き物の能力により金持ちであったり、食うには困らないという話が伝わっており、忌み嫌われながらも時に婚姻を結ぶ者もおり、且つ、一度、その家に憎まれると犬神などを憑けられてしまうため邪険にはできないという話が伝わっている。もっともそれは家筋の者が意識的に憑けているのではなく犬神自身の意志によるところが、クダなどと異なるところで、本作品の蟲もこれに近い。言わば、知能をもち、取り付いている人と半独立・半従属の共生(寄生)関係にある。
当作品がこうした狐などをモチーフとしながらもあえて河童など実際の妖怪をモデルにしなかったことが非常に目新しい。そんな蟲の発想の一つに”粘菌”があるらしい(作者が話の合間に中国に取材に行ったことを書いている)。
「菌類と原虫類の性質を備える植物界の一門。胞子は発芽してアメーバ状細胞を生じ、集合して運動性のある変形体となり、のちに胞子嚢(のう)または子実体を作る。ムラサキホコリカビ・ツノホコリカビなど。変形菌」(goo辞書より)
1985年に対馬で河童らしき生物が目撃され、更に足跡が発見された事件で、日本テレビ「特命リサーチ 200X!」では、足跡の分泌物から移動性の大型粘菌ではないかと推理していた。本作品の蟲もそんな植物と動物の性質を合わせもった生物からヒントを得ているようだ。特に床下から子供が生えてくる話などはキノコを彷彿とさせる
また繭の話で出てきたように土着の農耕神にも着想を得ているようだ。遠野に行った時、養蚕の神様であり家の神でもあるオシラサマを祀った曲がり家(家の中央に馬屋がある)を見学したが、暗い奥座敷に無数のオシラサマの人形が祀ってある様子は、なんともいえない異形空間での畏怖体験であった。山の神の話など、蟲が単なる恐ろしい下等な妖怪ではなく、粗末にすれば祟られもするが大事にすれば幸福をもたらしてくれる、人間より格上の神に近い存在としたことが当作品をより新機軸、且つ崇高なものにしている。
<参考文献>

日本民俗学概論

日本民俗学概論

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 1983/01
  • メディア: 単行本


サムライガン 2 (2)

サムライガン 2 (2)

  • 作者: 熊谷 カズヒロ
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1998/12
  • メディア: コミック


妖怪ハンター 天の巻

妖怪ハンター 天の巻

  • 作者: 諸星 大二郎
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2005/11/18
  • メディア: 文庫


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東京オリンピックよりタチイエローが欲しい! [書籍/漫画感想]

オリンピックは福岡でいい!地域振興にもぴったりだし。石原バカ都知事よ、東京にこれ以上、人や物は要らないって!
なんてたって、「攻殻機動隊」での日本の未来の首都は福岡だしね!(爆)

攻殻機動隊 (1)    KCデラックス

攻殻機動隊 (1) KCデラックス

  • 作者: 士郎 正宗
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1991/10
  • メディア: -


攻殻機動隊 (2)    KCデラックス

攻殻機動隊 (2) KCデラックス

  • 作者: 士郎 正宗
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2001/06/28
  • メディア: 単行本


攻殻機動隊1.5

攻殻機動隊1.5

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2003/07/23
  • メディア: ソフトウェア


「攻殻機動隊」漫画版読みました。
以前、本屋で立ち読みした時、あまりにエロかったので引いてしまい読まずじまいでしたが、この度機会あって一読させて頂きました。
案の定、1巻と2巻はエロかった(爆)。まだ1巻は、一応ストーリーもあって映画ともリンクしているが、2巻はなんだ!裸ばっかりではないか(大爆)。
それに引き換え、1.5巻は一番面白い。内容も控えめだし、アニメともリンクしてるしね。
でも全巻とも話がさっぱりわからない。特に注意書きは読んじゃダメだね(爆)、余計混乱する。
それにしても1巻と2巻の間には10年の歳月が流れているんですねぇ~。コンピューターも1巻ではなんとなくメインフレームっぽいし、ソ連はまだあるし、携帯もないし、時代を感じさせますねぇ~
それにしても作者の頭の中身の構造は一体どうなってんでしょうか。よくこんなこと描けるなぁとつくづく関心します。

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 特別編 TACHIKOMA FILE

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 特別編 TACHIKOMA FILE

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ホビージャパン
  • 発売日: 2005/09/10
  • メディア: 単行本


タチイエロー最高! ”松桂建設”と”安全第一”の文字いいですねぇ~!不器用なもんでプラモ作る趣味は全くありませんが(途中で飽きて壊す)、一家に一台是非!欲しいです


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