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目から鱗「サルの社会とヒトの社会―子殺しを防ぐ社会構造」 [書籍/漫画感想]

サルの社会とヒトの社会―子殺しを防ぐ社会構造

サルの社会とヒトの社会―子殺しを防ぐ社会構造

  • 作者: 島 泰三
  • 出版社/メーカー: 大修館書店
  • 発売日: 2004/07
  • メディア: 単行本

 けなすのは簡単だが、ほめるのは難しい。気に入った本のことはなかなか書けない。
 本書は東銀座の改造社書店で最初に見かけた。この本屋は一見何の変哲もない本屋だが(但し、立地は変。本屋がある様な場所ではないし、ビルが古くて地味なので永いこと気づかなかった)、棚に並ぶ本が非常に私好みの選書をしていて、とくに考古学・自然科学の専門書はお金があったら買いたい本ばかりあるので、どうしてこう選書が良いのかと店主に思わず聞いてしまった。私はこの本屋でいつもうんうん粘った挙句、結局高額な専門書には手を出せず、安くて面白い本を買い、残りは図書館で探すことになるのだが、この本はちゃんと買いました。
 最初はほのぼのしたニホンザルの観察日記から始まる。みなしごの雄サルに調査団の人たちがいたずらで著者の名前を付けて「タイゾー、タイゾー」と可愛がるという心温まる光景が展開する。しかしタイゾーを群れへ返す試みのあたりから話は深刻さを増してくる。そしてなぜ群れに受け入れられないかがまず後半への伏線になる。
  随所に霊長類学者の世界的権威である河合雅雄氏へのむき出しの反抗心が表される。それは日本のお家芸である餌付けによる餌場サル学が、いかに自然の本来の生態系からかけ離れていて、更には人間の傲慢さがサル社会を破壊してしまっていることに対する怒りである。
それはこの本がある意味、タブーとされる内容を扱っていることにも関連しているのだろう。つまりサルの子殺し、更には共食い(カンニバリズム)についてである。通常、我々はカマキリなど下等な生物は別として、高等な動物では同種同士の殺戮など人間以外は行わないと信じ込んでいるが、自然界ではしょっちゅう行われているという事実にまず衝撃を受けた。しかもそれはニホンザルのみならずインドのハヌマンラングール、マダガスカルのワオキツネザルやヴェローシファカ、更にはチンパンジーやゴリラなど人間にごく近縁な類人猿にまで及んでいることに驚きを隠せない。その詳細は、主に群れの赤ん坊ザルをヒトリザル(群のまわりを歩いている大人の雄)が襲って殺してしまったり時にはその一部を食べてしまうというショッキングなものである。ここで特筆すべきは著者がそれを単なる狂った行動と片付けずにその原因を追究していった姿勢である。何か異常な事件、例えば幼児誘拐殺害事件など起きた時に、我々は犯人の精神科通院歴などを発見して異常者の極めて特異な行動だと安心してはいないだろうか?実際にはそれが単なる心療内科であったりしてもだ。現在ではうつ病や不眠症、自律神経失調症、適応障害などで神経科や精神科、心療内科へ通うことなどごく普通に行われていることである。にもかかわらず一度事件が起きるとワイドショーは中学生の時の作文までひっぱり出して犯人の特異性を際立たせようと躍起になり、それが「やっぱりね」という翻訳機能を果たすことで人々は日常を取り戻すのである。しかし、こんな追求をいくら繰り返した所で、事件の真相には一向に近づけないし、原因を究明し未然に防ぐことなど到底おぼつかない。しかし、こうした犯罪が実は祖先から受け継がれたもの、つまり誰にでも起こりうることだとしたならばどうだろうか?
 著者がこれを狂った行動と片付けなかった訳は、子殺しを行わないか極めて少ないサルも存在するという事実である。種類によっても違いがあるし、同じ種類でも子殺しが行われるある特定のパターンというものが存在する。まず、1.単雄群に多く複雄群には稀であること。つまり強いボスザルと複数の大人の雄ザルがきちんと群れを統率していれば起こらない。2.メス優位の種では稀であること。雌の方が雄より体が大きい種類やボノボの様に雌が核となる社会では子殺しは起こらない。3.人為的条件によるもの。即ち、群れに何か混乱が起きた場合子殺しの引き金になるが、勿論それは自然発生の場合もある。例えば、ボスザル交代時や、自然災害による場合もあろう。しかし餌付け(人間の都合で始めたり止めたりする)や生態調査、更には開発による自然破壊などが大きな引き金になる場合が多いというのだ。つまりサルの子殺しの原因の多くは人間にあるという見方もできる。私はこれを現在の日本社会に重ね合わさずにはおれない。昨今、幼児殺害や児童虐待など子供の受難が叫ばれているが、これはバブルがはじけ、社会構造が大きく変わったこの15年余りで既成の概念が崩壊し、過剰な自己防衛に走る余り弱者を攻撃する大人たちの混乱ぶりとそっくりではないだろうか。著者は、人類の歴史の中で子殺しが定常的に行われており、その主な原因が「将来への不安」であると説く。まさに今こそ予測の見えない社会である。超高齢化社会、年金の不払い、グローバリズム、終身雇用の崩壊、数え上げれば切りが無い。 
 この後、著者はサルにも劣る人間の「わが子殺し」の原因を追究するため、ハダカデバネズミという哺乳類なのにアリやハチの様に女王ネズミや働きネズミがいるという驚くべき動物の生態を紹介する。人間が裸であることがハダカデバネズミと同じく真社会性社会(カースト、協同の育児、世代の重複)を営ませたと説く。かなり強引ではあるが故に面白い仮説である。特に階級制は人間社会の本質である、と言い切っている点は的を得ている。そして母系社会であった狩猟採集民から農耕社会へと移るにつれ、食料の過剰生産と生態系攪乱が増幅し、母親らに「将来への不安」を増大させたという。この説を読んで私は魏志倭人伝の邪馬台国の記述を思い起こした。
「倭国乱れ相攻伐すること歴年、及ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼と曰ふ。・・・・卑弥呼以って死す。男王を立てしも国中服せず。更相誅殺し当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女壱与、年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。」
母系社会のボノボ(チンパンジーより人類に近いという説もある)に子殺しがない
ことと重ね合わせ考えると興味深い。
 文明の発達が人間の子殺しを増大させたとする考えは、サルの子殺しが人為的攪乱が原因であるという幻想ではない科学的検証結果とダブってくる。その警告を真摯に受け止めるべきだと著者は説いている。しかし、その解決方法は説いていない。それは余りに壮大なテーマであり、本書の仕事の範囲ではないだろう。我々は本書を読むことで問題の根本に気づき、
ではどうすべきかを考え始めることこそ大切なのではないか。

 

 以前、「ネオテニー」http://blog.so-net.ne.jp/hanarezaru_bibi/2006-10-19 について書いた際、人間は”幼形進化(ペドモルフォシス)”であり、成体進化(ジェロントモルフォシス)の動物が周囲の環境に合わせて硬直した融通の効かない極端な進化を遂げた結果、環境の激変に対応しきれず衰退・滅亡していった中、人類は柔軟に環境変化に対応できる幼形成熟(ネオテニー)、言わば子供の受容力・柔軟性・心のひろさを進化の形として選択し繁栄してきたこと、古代及び農村では近代に至るまで、子供は神(六歳までは神のうち)であったことについて述べたが、子供に次いで男性よりネオテニー化が進んでいるのが女性であることは、丸みを帯びた体型や骨格に明らかである。そして女性もまた、古代から地方では近代に至るまで、青森のイタコや沖縄のノロなど巫女が示す通り、より神に近い存在であった。卑弥呼もその一人であろう。父系社会が行き詰まりを見せる中、人類本来の進化の形である母系社会への回帰も一つの解決の選択肢であろう。


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