空気に付加価値を認める人々 [社会風景]
随分前の話だが、パリに旅行に行った職場の同僚が皆のお土産に「パリの空気の缶詰」なるものを買ってきたことがあった。現代美術をこよなく愛する彼女の目にそれは、とても洒落たオブジェに映ったのであろうが、私を含め他の同僚にはその価値は全く理解できず非難轟々だった(爆)。だが、それも単なるオブジェではなくなる日が来るかもしれない。
あれから十数年たった今日、コンビニで「02サプリ」なる商品を見かけた。無論、高山を登る人や激しい運動を行う人々向けに酸素ボンベは昔から売ってはいるが、全く普通の人が「集中力を高める」などの理由で「空気」を600円で買うとはちょっとした驚きというか疑問である。
しかし考えてみるとその十数年前までは水を金を出して買うことも珍しがられていた。私がある日、今では普通となったミネラルウォーター(この呼び名も今は古いのであろう)を飲んでいると先輩が、「水に金を出すなんて信じられない」と言っていたものだ。しかし今やその先輩はそんな感想は恥ずかしくて言えないにどころか恐らく水道水は飲んでいないだろう。さらに昔、初めて缶入りウーロン茶が発売された時、「砂糖の入ってないジュースに金を出す気にはなれない」と漏らした友人もいたっけ。しかし今でも昭和一桁世代の人は水道水を平気で飲む人も多い。また、水の綺麗な地方出身者にもまだ水に金を出す気にはなれない人が多くいるだろう。2003年に茨城県神栖町で井戸水が原因の砒素中毒が発生した際、首都圏でもまだ井戸水を飲んでいる人が多くいるんだなあと改めて感心した。彼らにとって水はまだ空気と同じだった。しかし中東の砂漠の国サウジアラビアでは海水から作っている真水は石油よりも高い。初めてイタリアやフランスを旅行した時、欧米先進国ですら水道水は白く濁っていて飲めず、ミネラルウォーターでさえ無炭酸水はとても手に入りにくいことに驚いたものだ。70年代・80年代の高度経済成長時代の東京を生きた我々にとって川はドブ、海はヘドロの世界であり、カルキ臭い水を我慢しながら飲んでいた時代に、真水に金を出すことはさして抵抗感はなかったし一度受け入れると、多摩川にアユやアザラシ(爆)が上ってくるほど水質が改善しても、もう元の水道水を飲む生活には戻れなくなっている。
「映像の世紀」(NHK)には大戦中のロンドンではナチスドイツの毒ガス弾による空襲の恐怖からガスマスクを付けてダンスをしたり、赤ちゃんがガスマスクをしている市民の映像が残されているが、当たり前にあったはずの空気がある日を境に大変価値の高い物質に変貌を遂げた瞬間である。生まれ落ちた瞬間からスモッグや排気ガスが日常の日本に住む2000年代チルドレンにとって、空気に金を出すことに何ら違和感を感じないとしたら、何やらうそ寒い気がしてならない。森林破壊が進み、炭酸ガスが地球環境を変えるほど増大する現代、我々は一体何時まで空気をタダで吸うことができるのだろうか。気が付くとミネラルウォーターを飲む様に、駅の売店で自販機で、空気を買う時代がほら、もうすぐそこまでやって来ている。椎名誠が以前「あやしい探検隊」で、キリマンジャロに登った際、余った酸素で「酸素パーティー」をやって「この酸素はドライかな」とか冗談で言ってたという話を書いていたが、それももはや冗談ではなくなって来ている。そのうち出るぜ、「南アルプス天然空気」が。
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