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ますます塀は高い [心象風景]

 塀のあちら側の人間とは生きる意味を考えない人たちのことだ。多くの生き物の中でホモ・サピエンスだけが生きる意味を考える。生きる意味を考えるのは、しんどい。なぜなら意味などないからだ。多くの場合、偶然の結果であり、環境の産物である。他人から見て羨ましいと思っても当人にとっては自然なごく当たり前の産物であったりする。スーダンの難民に生まれたことと皇族の息子に生まれたことの違いに環境以外の差などあるだろうか。人間が努力で変えられるものなどごく僅かなパーセンテージでしかない。
 環境や境遇を受け入れ、弱者を貶めてプライドを保ち、自分の価値観が唯一無二の絶対だと信じ、他人には嘗められない様に振る舞い、甘えず、反対意見には耳をかさず(というか興味も持たず)、ひたすら冷徹かつ明るく振舞い、時に畏怖され挑戦的で(自分もそれを意識し)、且つ場の強者をかぎ分けてルールを素早く理解し従い、無用なことは一切行わない。自分が大好きで反省も後悔もしない、故にモラルを捨て瞬間的に全力で走れる、それがあっち側の人である。
 環境を受け入れられずひたすらもがき、善とは何かを理解しようと努力し、実践しようと試みるが自分とのギャップに失望し、沈黙の反抗を行ない、又は酒の力でわめいて醜態をさらし、悩み、迷って出口が見つからずにうろうろし、自分は他人より高いレベル(聖人)にいるという根拠なきプライドにしがみ付き、臆病であり、逃避し、時に甘えて目こぼしをもらい許される自分を酷く嫌っている。走れないが搾取されることで社会の秩序をぎりぎりの所で保つ役割をする。それがこっち側の人である。
 私は人生の意味を考えてじたばたせずにはいられない性分だが、かといってモラルを守る善人とは言い難い。
 通常の場合、塀のこちら側の人間はあちら側の人間を醜いと考え酷く嫌っているが、どこか憧れている面もあったりする。塀のあちら側の人間はこちら側の人間など眼中にはない(装うことはある。いわゆる偽善者)。特に昨今は負け犬だの勝ち組だのといった、便利な、根拠の全くない識別コードが蔓延していて簡単に結論づけてしまう。以前は両者の間にももっと交流や対話があったが、諦めと拒絶だけが塀をますます高く積んでいる。

 「人間は善の力と悪の力の間の、神と悪魔の間の、大きな戦いに取り込まれている。その戦いの場となっているのが個々の人間の心である。人類全体の運命が彼の決意にかかっている。天使の群れと悪魔の軍団が彼を見守り、その結果を互いに競いあいながら、彼の理念一つ一つに取り付いている」

 塀の上を歩く我々にとっては誠に歩きにくい。下は段々目もくらむ様な絶壁になりつつある。もうどちらかに自ら飛び降りることはできそうにないし、かといって梯子をかけてくれる奇特な人など勿論いやしない。でも明日のことは誰にもわからない。それが絶望であると同時に唯一の希望でもある。ベルリンの壁が崩壊することを誰が予測できただろう。
 世界中の塀がいつか無くなることを望んで今日も穴を穿つ。
[参考文献]

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

  • 作者: M.スコット ペック
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 単行本


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