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それでもいじめについて何か言っておきたかった [児童問題/少子化]

 いじめ、いや、いじめに関わらず全ての自殺は避難場所の有無の問題である。例えば職場でいじめがあったら会社を辞めれば良いが、家族がいるから辞められず、結果自殺するといった様に、避難場所が一箇所でもあれば自殺は起こらない。いじめられっ子は学校に行かなければいじめられないで済むが、親に怒られる等の理由でそれはできない。従って死以外に逃げる場所はないのである。最近のいじめに関する報道を見ていると自殺した子供の親は被害者で、先生や校長や教育委員会は加害者という構図がある様に見えるが、実際は両親も子供を自殺に追い込んだ加害者の一人である。
 私も小学校から高校までいじめられていた。小さい頃、いじめられたと親に訴ると、情けないと言って叱られた。自分の子供が負け犬であることが親は許せないものだ。体を鍛えろと言われ、サッカー教室に無意味に通わされた。一緒に入った友達は皆辞めても休まず1年間通ったが別に何も変わらなかった。学校に行きたくないと言えば、怠けるなと言って引きずってでも学校に連れていこうとした。自分の子供が社会のレールから外れることは(実際には人生に決まったレールなど存在しないのだが)、自分にとって死ぬよりも恥ずかしいことらしい。世間体が子供の命よりも大事なのである。大事なのは今の幸せであって20年後の未来など誰もわかりはしないにも関わらずだ。1回でもそういう事を言われれば子供は二度と親には相談しない。まして自立心が芽生える年頃なら親に頼ることは恥辱である。それは動物としての巣立ちの本能だから逆らえない。ともあれ自殺するまでにも子供の異変に気づかない親などいない。親は気づいているのだ。気づいても問題を処理するのがめんどくさいから見て見ぬ振りをして、なんとかなると楽観的に無意識に忘却しているだけだ。それは教室でのいじめをめんどくさいと見て見ぬ振りをする教師と変わりはない。
 いじめられっ子が大人しくて従順で真面目で優しくてと報道で聖人の様に扱われるのもどうかと思う。先天的に明るく活発な子供でもいじめが続けば萎縮して暗く無口な子供になるだろう。性格は後天的なもので環境が人を変える。また全てのケースに当てはまるわけではないが、いじめられっ子は過去、未来においていじめっ子になることも多い。私も小さい頃は女の子をいじめたこともあった。また、集団で誰かをいじめる仲間に加わったこともあった。しかし自分がいじめられる側に回ると元のいじめられっ子が今度は仲間と共に自分をいじめた。体育会系のクラブで起こるしごきの殆どはこの類だろう。先輩にいじめられた恨みつらみを三年生になって晴らす。これは社会に出ても続いていくことだ。いじめで苦しんでる子供に対して「辛い、苦しいのは今だけ」とか「長い人生の中で一瞬のこと」というのは凄く無責任な発言だ。いじめは一生の問題だ。例え社会に出てもパワハラやセクハラ、ドメスティックバイオレンスなど一生いじめに出会う可能性がある。
 いじめの素地とは何か。子供のそれは身体的特徴と言い切ってしまおう。身体者障害者ほどのハンディキャップはないが、何らかの身体的特徴の不利により最初から同じスタートに立てないにも関わらず、親や学校によって無理やり同じカリキュラムによる集団教育に乗せられてしまうことによるものだ。最も顕著な例が眼鏡だ。眼鏡はいじめの象徴である。いじめられっ子の代表、のび太も眼鏡をしている。最近、めがねっ娘、とか言って眼鏡をかけた女性が一部でもてはやされているが、あれも女性をいじめたいという気持ちの裏返しであろう。私も眼鏡がらみでよくいじめられた。私は乱視が酷いためハードコンタクトしか使えないのだが、過敏症ですぐものもらいができてしまうため眼鏡しか使えなかった。眼鏡はいじめの格好のアイテムである。取り上げられたり、壊されるなどからかいの道具としてもってこいであり、自分の弱点をさらけ出している様なものである。また、体育、特にバスケット・サッカーなどの球技はそのウィークポイント振りは極限に達する。眼鏡を外せばボールも味方も敵も見えない、眼鏡をかければぶつかった際危険だし、第一、教師が外させてしまう。ラグビーに至っては見学しているしかなかったので当然体育は酷い成績だった。教師は何の防護策も取らずに、ただカリキュラムを守ることしかしなかった。結果、眼鏡をしなければ見えない者にただ我慢を強いた。教師はとにかく問題を起こすのが恐いので、とかく事なかれ主義に走ってしまう。他の身体的特徴、例えば痩せていて筋肉が付きにくいとか、色白だとか、ちびでぶだとか契機は人それぞれだろうが。
 いじめられたらどうすれば良いか?体を鍛えて立ち向かえなんていうのは全くナンセンスである。クラス中を相手にできる程、筋肉を付けられる頃には卒業している。大体、いじめに会う人というのは何らかの身体的弱点により筋肉が付きにくいとか、運動に人一倍苦労が要る人が多いのだから無理に努力すればその苦痛と、なかなか伸展しないことで返って自信を無くし自殺に拍車をかけるかもしれない。私も高校の時体育会系のクラブに入って体を鍛えたが同じメニューをこなしても同期に比べて筋肉が付かず筋を痛めたり体を壊したりするばかりで、結局先輩からやめた方が良いといわれた。とにかくまず避難場所を作ることである。私の場合は図書室と文化系クラブの部室だった。もちろん、それらの避難場所を設定できない場合は天国を逃げ場所に選ぶようなら、登校拒否や家出を勧める。さすがにそこまでやれば事の重大さに親や教師もちったぁ気が付くだろう(いやそれでも無理かな?)。どうも日本人は、無様に生き続けるよりも潔く死ぬことを尊ぶ風潮があるから始末に悪い。人間は死ねばただの有機体であり醜い死体をさらすのみで美しい死など存在しない。生まれ変わりなど無論あり得ない。自殺は他人にとっては単なる迷惑行為でしかない。先日も人身事故で電車に40分も閉じ込められたが、ラッシュ時の自殺は本当に頭に来る。あんなことをしても誰も同情しないと思うが・・・。どうしても死にたいなら富士の樹海あたりで人知れずひっそり死んでもらいたい。派手な自殺やいじめっ子の名前を遺書に書くといった行動は加害者や社会への報復行為であり、憎しみによる愚行に過ぎない。自分の尊い命をそんな下らないことのために使ってはいけない。     
 また私の場合、休み時間や放課後は教室に極力いなかった。クラスメートを信用せずクラス内に友人はあまり作らなかった。どんなにいい人でも仕事が絡むと嫌な奴になってしまうのに似てるんじゃないか。友人は他の学年に作った。基本的にいじめられると卑屈になるので対人関係を上下でしか見れなくなる。同年令は敵なので対等の立場で見れないのだ。上下の人間関係の方がうまくいく。クラスの集団行動には、極力参加しなかった。いじめにおける学校の問題点とは「人間は生まれながらにして不平等であり、一人一人違って当然」という原則を無視した誤った集団教育にある。ましてあんな狭い教室に子供を大勢拘束して、不安・不満からいじめが発生しない方がおかしいくらいだ。そんな誤った教育に命をかけてまで従う必要はない。基本的に学校にさえ来ていれば、親も教師も大事にはしないものだ。だから朝が恐くてなかなかベッドから起き上がれず遅刻を繰り返しても学校には毎日行き続けた。授業中のいじめはなるべく前の列に座って大声を上げて大袈裟なジェスチャーで嫌がった。そうすれば自分もふざけていると叱られるが少なくともいじめは中断させることはできた。担任に相談することは、中学までは有効になるケースもあったが、ほとんど効果はなかった。少なくとも高校になったら100%何もしてくれない。しかしカウンセリングの様に、例えその者による救いが期待できなくても誰かに話すことは、精神的負担が軽くなるため重要である。もっとも最近の教師は相談内容をクラスの前でばらしてしまうとんでもない奴もいるそうなので相手は慎重に選ばねばならない。極力、自分のクラスに無関係の人間が好ましい。
 いじめにあったらとにかく逃げる。そしていじめの即効薬は、悲しいかな、いじめである。しかしそれでは憎しみの連鎖は止まらないし、最下層の者はどうしようもない。この問題は戦争への扱いと同じである。私はもちろん、故ジョン・レノンのイマジンの如く世界から戦争がなくなることを願っているが、人間は所詮、猿なので、その知性や理性に、それが達成できると思えるほど信頼をおけないのだ。会社がカジュアルデイを作っても客先に行く時は背広に着替える様に、日本だけが戦争を放棄しても世界から戦争がなくならなければやがて日本も自衛隊など持たざるを得なかった。悪質ないじめの根絶を目指すことはもちろん大事だが、近い将来なくなるものとは到底思えない。今まさに自ら命を絶たんとする子供がいるならを他の生き物をいじめること等でなんとか心の平静を保ってほしい。私も虫や植物によくあたった。近頃は自然が減って殺せる生き物もめっきり少なくなったことも大きな問題だ。また、真面目な話、いじめを自虐的快感に思えることも命を救う一つの対処法である。
 いずれにせよ、いじめに出会って大事なことは、変な被害者意識から自分を聖人君子と思わないことだと思う。人間は醜く、人生は汚れており、社会は卑劣なもの、そして自分もその一人だと自覚してこそ初めていじめに対し精神的に打ち勝ち、では自分はどうすべきか考える出発点に立てる。人間は誰しも生まれながら贖罪を背負って生きている。テレビや映画の様な一人で立ち向かう正義の主人公など気取ってはいけない。逃げる行為を臆病だの卑怯などと感じるのは間違っている。永い人類の歴史、人々は自然の驚異から逃げ続け、自分達だけのパラダイスである都市を築いてそこに逃げ込み、環境破壊により周辺の生物を殺戮してきた。日本がアメリカの軍事力に逆らえない様に、上には上がおり下には下がいる。部長だの社長だのお得意さまだの国家権力だのから全ての人間は一生逃げ続けている。「俺は俺のやり方で行く」なんて言って車を暴走しているのはCMの中だけだ(爆)。最近は、避難場所を隠れ家などと気取った呼び方をするが、なぜ家が目の前にあるのにいい年こいたサラリーマンが屋台や焼き鳥屋でメートルを上げているのか考えてみよう。それで命が救えるなら私は良いと思う。逃避は人間の宿業であり、逃げることは恥ずべきことではない。良き避難場所と無力だが無害な相談相手こそが自らの命を救うことになろう。
 私はなんとしても子供に死なないでもらいたい。子供同士のある程度のいじめは健全な精神によるもので、存在しても仕方のないことだと思う。むしろいじめはなかったと言い切る大人の方が、放射能漏れはなかったと言い切る原発の様に不健全であろう。本当のいじめは子供同士ではなく大人が子供をいじめることの連鎖から起きていることは明白だ。無論私の味わった些細ないじめなど今起きている壮絶ないじめに比べれば取るに足らない。しかし、この文章も矛盾だらけで無意味なものになっているが、例えどんな言葉を使っても、今、死のうしている全ての子供たちに生きていて欲しいと切に願う。どんなに首尾一貫としていなくても、格好悪くても、みっともなくてもなんでも生きてさえいれば忘却という素晴らしい人間の力でやり直せる時が必ず来ると思う。物凄い確率で生まれてきた奇跡を、社会の犠牲になって止めてしまうことだけはして欲しくないと思う。


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